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知らない法律は、検索できない| コンプライアンス担当 田中の軌跡 #7

By: 法務部コンプライアンス担当 田中

法改正情報を見逃したのではなく、そもそも監視していなかった法律に気づいた
LN製造株式会社のコンプライアンス強化と法令台帳更新導入事例

「知らなかった」が許されない時代。法改正の頻度と複雑さが増す中、LN製造株式会社のコンプライアンス担当・田中(仮名)は、全社の法令対応に立ちはだかる“見えないリスク”と日々向き合ってきた。これは、現場任せの限界に気づいた一人の担当者が組織を動かし、仕組みを構築するまでの軌跡である。
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■プロローグ 見逃したのではない

「田中君。これは、法改正情報を見逃したという話ではない」

 

副社長の声は静かだった。

怒鳴られるより、その静けさが堪えた。

役員会議室には三人だけ。副社長。コンプライアンス部長の黒岩。そして田中。

 

机の上には、二つの資料が置かれていた。

 

一つは、物流会社から届いた報告書。もう一つは、監視法律リスト。

約150法律。田中が五年間かけて作ったものだった。

 

副社長は、まず報告書を静かに開く。

指で文字を追いながら読み進める。やがて指が止まる。

 

「この法律だ」


物資の流通の効率化に関する法律


物流効率化法。ニュースで名前を見た記憶はある。だが、それだけだった。

副社長は、次に監視法律リストを手に取った。ページをめくる。また、めくる。紙をめくる音だけが響く。

目当ての名前を探しながら、最後のページまでめくり終える。

 

「この法律は、監視対象か」

 

田中は答えられなかった。ページをめくり終えた副社長の表情を見て、答えは分かっていた。監視リストのどこにも載っていないことを、昨夜、自分で確認していたからだ。

 

「入っていません」

 

小さく答える。副社長は怒らなかった。その代わり、もっと重い言葉を口にした。

 

「問題は、そこじゃない」

 

「この法律は、もう施行されている」

会議室の空気が変わった。

 

「物流会社から連絡があった。当社は荷主として対応が必要になる可能性があるそうだ」

 

「申し訳ありません。すぐ監視対象へ追加します」

 

ようやく出た言葉だった。だが副社長は首を振る。

 

「151番目を追加して終わりでは困る」

田中は息を止めた。

 

「同じ理由で、監視していない法律が、ほかにもあるんじゃないか。もう施行されている法律も、あるんじゃないか」

 

「なぜ、この150法律なのか。ほかに漏れはないのか。社長に説明できるか」

 

答えられない。田中自身、一度も考えたことがなかった。

 

約150法律。会社を守る盾だと思っていた。だがその盾には、

最初から穴が開いていた。しかも今、その穴の向こうで法律が動き始めていた。

副社長は時計を見る。

 

「金曜日の経営会議で説明してくれ。あと二日だ」

Stopwatch  経営会議まで、あと49時間

■二日前 北村の違和感

話は二日前、月曜日にさかのぼる。

午後三時。物流部の北村は、取引先である中央物流サービスとの定例会に出席していた。配送状況。燃料費。来月の計画。いつもの会議だった。

すぐに終わるはずだった。だが担当者は資料を閉じなかった。

「北村さん、最後に一つだけ」

差し出された紙には、赤い数字が並んでいた。

二時間三十分。二時間五十分。三時間十分。

「これは?」

「荷待ち時間です。最近、関東工場で待機時間が長くなっています」

北村は頷いた。「工場へ確認します」

それで終わる話だと思った。しかし担当者は続けた。

「実は、それだけではありません。物流効率化法の関係で、荷主である御社にも対応が求められています

 

「......当社にも?」

 

「はい。もう始まっています」

 

北村は意味が分からなかった。物流の法律は、運送会社が確認するもの。

そう思っていた。

「この法律について、御社では確認されていますか」

北村は答えられなかった。「......社内で確認します」

 

その日の夕方、話は物流部長へ。そして副社長まで上がった。

 

副社長は資料を読み終えると、一言だけ言った。

 

「コンプライアンス部門は、この法律を把握しているのか」

誰も答えられなかった。

■該当なし

月曜日、午前九時。田中の携帯電話が鳴る。黒岩だった。

「今から30分後。役員会議室に来てくれ。物流効率化法の件だ」

電話は、それだけだった。嫌な予感しかしない。

 

田中はノートパソコンを開く。監視法律のExcel表。

検索欄へ入力する。

物流

Enter。該当なし。

正式名称を入力する。

物資の流通の効率化に関する法律

Enter。画面には、無機質な文字だけが表示された。

該当なし

 

もう施行されている法律が、この会社の監視リストには存在していなかった。

 

田中は画面から目を離せなかった。

■挫折 雨の非常階段

そして、30分後。

田中は言われた通り役員会議室へ向かった。副社長と黒岩の前で、これまでの経緯を報告した。

 

「151番目を追加して終わりでは困る」

 

副社長の声は、今も耳の奥に残っている。そして最後に、腕時計に目を落としながら告げられた一言。

 

「金曜日の経営会議で説明してくれ。あと二日だ」

Stopwatch 経営会議まで、あと45時間

役員会議室を出ても、田中は自席へ戻れなかった。

 

足は、誰もいない非常階段へ向いていた。

 

重い扉を押し開ける。冷たい雨が、小さな窓を叩いている。

 

約150法律。改正情報を確認していた。

改正情報も担当部門へ展開した。必要なら法律に関する社内説明会も開いた。

やるべきことは、全部やってきたつもりだった。

 

何年もかけて、一つずつ積み上げた法律。

誰よりも真面目にやってきたつもりだった。

休日に娘との約束を断って出社したこともある。

 

担当部門が分からず、社内を何度も回ったこともある。

 

法律が一つ増えるたび、少しだけ会社を守れた気がした。

それが今、副社長の一言で崩れた。

 

150法律を監視していたんじゃない。150法律しか監視していなかった。

 

「俺は......何をやっていたんだ」

 

思わず声が漏れた。そのとき、扉が開く。

 

「田中さん」

遠藤だった。「探しました」

田中は苦笑した。「一人にしてくれ」

 

「私も、この150法律を信じていました。私も、この法律に気づきませんでした。

だからこれは、田中さん一人の失敗じゃありません」即答だった。

 

田中は黙った。遠藤は窓の外を見ながら言う。

「悔しいですね」

 

「......ああ」

 

「でも」遠藤は笑った。

 

「悔しいってことは、まだ終わってません」

 

田中は少しだけ笑った。「そうだな。まだ終われない」

■深夜 知らない法律は検索できない

Stopwatch  経営会議まで、あと35時間

その夜、二人は会議室に残った。監視法律リストを、最初から見直していく。

いつ登録したか。なぜ、誰が判断したか。

会議室のドアが開く。

 

「まだ残っていたのか」

 

黒岩だった。二人の様子を見て、眉をひそめる。

 

「田中、あまり大きな話にするな。物流効率化法を追加すれば、151法律だ。それで十分だろう」

 

「それでは、また同じことが起きます」

 

田中が食い下がったのは、この日が初めてだった。

 

「部長。今回見つかったのは、たまたま物流会社から連絡が来たからです。連絡が来なければ、今も気づいていません」

 

黒岩は黙った。「......経営会議で、そんな根本的な話をするつもりか」

「はい」

「社長がどう思うか、分かっているのか」

「分かりません。それでも、隠すよりましです」

黒岩はしばらく田中を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。

 

「......好きにしろ。ただし、中途半端な資料は持ち込むな」

 

それだけ言うと、部屋を出て行った。

田中はホワイトボードへ歩く。ペンを取る。そして、一文だけ書いた。

 

監視法律リストそのものを見直していない。

 

田中は振り返る。

「知っている法律は検索できる。でも、知らない法律は検索できない」

遠藤は黙っていた。

田中はパソコンを開く。顧問弁護士とのやりとりや、各部門との打合せ記録を、片っ端から洗い直していく。

 

「何をどこまで見ればいいんだ」

 

誰に聞くでもなく、つぶやく。百件か。千件か。一万件か。

田中の手が止まった。

 

「そうか......俺たちは、自分たちが知っている言葉でしか探せない」

遠藤が息を呑む。「物流という言葉を知っているから、物流効率化法は見つけられる。でも、その言葉すら知らない法律は?」

「見つけられない」

いや、目にしたことはあった。だが法律名だけを見て、自社には関係ないと思い込んでいた。

会議室が静まり返った。それが、今回の問題の本質だった。

知らない法律は、調べようとしても、調べられない。中身も確認しない。

田中は携帯電話を手に取る。「外から見てもらおう。LexisNexisへ電話する」

■転機 150法律は会社の財産

Stopwatch  経営会議まで、あと25時間

翌朝九時。LexisNexisのコンサルタントがやってきた。田中は、ここまでの経緯を話した。
約150法律の監視リストを開く。一ページ。また一ページ。静かに見続ける。やがて顔を上げた。
「田中さん。これを作るのに、何年かかりました」
「五年です。休日も返上したこともありました」

コンサルタントは微笑んだ。「じゃあ、捨てるものじゃありません」

「この150法律には、御社が経験してきたことが全部入っています。過去に問題になった法律。設備。取引。事業。担当部門。これは御社の財産です」
田中は、初めてそのリストを違う目で見た。穴の開いた盾ではない。
会社が五年かけて積み上げた知識だった。
「では、何が足りなかったのでしょう」

「外から見る視点です。私たちは、同じ製造業の企業が確認している法律を分析しています。御社の150法律と、業種全体で確認されている法律。この二つを重ねます」
遠藤が画面へ身を乗り出す。「どちらかを正解にするんじゃないんですね」

「はい。御社のリストは会社の財産です。そこへ、業種全体の視点を重ねます」

神崎は比較画面を開いた。「見てみましょう」

画面が切り替わる。一番上に表示されたのは──


物資の流通の効率化に関する法律


田中は、小さく息を吐いた。「......やっぱり」

 

田中はゆっくりスクロールした。

その瞬間だった。「田中さん」遠藤が止まる。「これ......

 

物流効率化法ではない。別の法律だった。

 

田中は検索する。Enter。該当なし。

 

二つ目。遠藤の指が画面を追う。また止まる。検索。該当なし。

 

三つ目。四つ目。画面をスクロールするたび、登録していない法律名が現れては、同じ表示を返す。

 

該当なし。該当なし。該当なし。

 

会議室の空気が、少しずつ冷たくなっていく。

 

五つ目で、田中の手が止まった。副社長の言葉が蘇る。

 

「151番目を足して終わりでは困る」

 

その意味を、ようやく理解した。問題は、物流効率化法ではなかった。

 

150法律というリストを、一度も疑ってこなかったことだった。

田中は静かにつぶやく。「......一つじゃなかった」

■対峙 経営会議

Stopwatch  経営会議、開始。

金曜日の朝。田中は誰よりも早く出社した。

会議室の扉の前で、黒岩が待っていた。

「緊張してるのか」

「......はい」

黒岩は小さく笑った。「なら、ちゃんと向き合えてる証拠だ。行ってこい」

背中を、一度だけ叩かれた。

  

午前十時。経営会議室には、社長、副社長、CFO、各部門の役員が集まっていた。後方の席には、物流部の北村の姿もあった。

田中は、スクリーンの前に立っていた。手のひらが汗ばんでいる。

最初のスライドの最後には、大きく三行表示されている。


法改正情報を見逃したのではなく、
最初から、監視していなかった。
そして、その法律は、すでに施行されていた。


会議室が静まり返る。田中は、一呼吸置いてから話し始めた。

「物流効率化法は、当社の監視対象に含まれていませんでした。そのため、継続的な確認が行われていませんでした」

 

次のスライド。約150法律の一覧が映る。

 

「これまで当社は、監視対象となっている法律については、継続的に改正情報を確認してきました。しかし、監視すべき法律そのものに漏れがないかを確認する仕組みはありませんでした」

 

CFOが眉をひそめる。「それで、いくつ漏れていたんだ」

 

田中は、一瞬だけ言葉に詰まった。だが、目を逸らさなかった。

 

「今回確認できた範囲だけで、複数見つかっています。すべてが当社へ適用されるわけではありません。しかし、一定規模以上の製造業が共通して確認している法律であれば、少なくとも一度は、自社との関係を確認する必要があります」

 

「行政指導や罰則の対象になっているものは、あるのか」

声が、一段と鋭くなる。

 

「現時点で、対応期限を過ぎているものは確認されていません。ただし、対応が遅れれば、その可能性はゼロではありません」

 

役員の何人かが、顔を見合わせた。

社長が尋ねた。「つまり、この150法律は間違っていたということか」

 

田中は、首を振った。「いいえ」

 

会議室の視線が集まる。

「この150法律は、当社が五年かけて積み上げてきたものです。過去の経験、設備、事業、取引、各部門との議論。当社にしか作れない、大切な財産です」

 

「今回必要なのは、このリストを作り直すことではありません。会社の財産に、外部の視点を加えることです」

 

スクリーンには、二つの円が映し出される。「LN製造の監視法律リスト」と「業種ごとの監視傾向」。その二つが重なっていた。

 

「知らないまま、監視対象から漏れている状態はなくします」

 

CFOが、腕を組んだまま尋ねる。「それで、漏れはなくなるのか」

 

以前の田中なら、きっとこう答えていた。なくします。

 

だが、今は違う。

「ゼロになるとは申し上げられません」

会議室が静まり返る。誰も動かない。田中は続けた。

 

「法律は変わります。会社も変わります。新しい事業も始まります。だから、一度作ったリストを正しいと信じ続けることの方が危険です」

 

社長が静かに尋ねる。「では、何を変える」

 

田中は、最後のスライドを映した。

 

半年に一度、監視法律リストそのものを見直す。

 

「半年に一度、現在の監視法律リストと、同業種の監視傾向を照らし合わせます。追加すべき法律がないか。対象外とした判断は妥当か。会社の事業に変化はないか。それを定期的に確認します」

 

「そして──守るべきなのは、法律数ではありません。見直し続ける仕組みです」

 

説明を終えた。会議室には、長い沈黙が流れた。田中には、自分の心臓の音だけが聞こえていた。

三秒。五秒。誰も口を開かない。

やがて、社長が資料を閉じる。

 

「承認する」

 

田中は、詰めていた息を、静かに吐いた。指先の震えが、ようやく止まった。

「物流効率化法への対応を進めろ。それと、半年ごとの見直しも、正式な運用にしよう」

 

「田中君」

 

「はい」

 

「今回、君の仕組みには穴があった」

 

「そのとおりです」

 

「だが」社長は、ゆっくり続けた。「五年かけて積み上げたものまで、否定する必要はない。その財産を使って、もっと強い仕組みにしてくれ」

田中は、深く頭を下げた。「必ず、直します」

その声は、もう震えていなかった。

 

会議室を出るとき、北村が小さく頭を下げた。田中も、黙って頷き返した。

■エピローグ 半年後

半年後。会議室には、二つの法律一覧が並んでいた。

一つは、LN製造が五年かけて作った監視法律リスト。もう一つは、同規模の製造業が確認している法律一覧。

 

遠藤が画面を見ながら言う。「田中さん、これ、うちのリストにありません」

田中は画面を覗き込む。検索する。該当なし。

 

少し前なら、その表示を見るだけで胸が締めつけられた。コンプライアンス担当なのに、知らない法律がある。そう思っていた。

 

だが、今は違う。怖いのは、知らない法律があることではない。

 

知らない法律などないと思い込むことだ。

「同じ製造業では確認しているんだな」

「はい」

「じゃあ、一度確認しよう。担当部門は?」

「まずは事業企画だ」「分かりました」

そこへ、北村が顔を出した。「田中さん、遠藤さん。今度の見直し、うちの部門にも声をかけてもらえますか」

 

田中は少し驚いた顔をしてから、頷いた。

 

「もちろんです!」

 

窓の外には、半年前とは違う青空が広がっていた。

 

まだ知らない法律は、この先もきっとある。事業が変われば、今日まで関係のなかった法律が、明日から関係するかもしれない。

 

だから、半年に一度、会社の財産を見直す。会社が積み上げてきた知識を、外部の視点と照らし合わせる。

 

漏れがないと信じるのではない。漏れがないかを、問い続ける。

 

それが、あの日の失敗から田中が得た答えだった。

 

コンプライアンス担当・田中の戦いは、まだ続く。

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