07 May 2026
見えない動機を暴く| コンプライアンス担当 田中の軌跡 #6
見えない『動機』――測れなかったリスク、暴かれる瞬間
LN製造株式会社のコンプライアンス強化とグローバルコンプライアンスサーベイ導入事例
「知らなかった」が許されない時代。法改正の頻度と複雑さが増す中、LN製造株式会社のコンプライアンス担当・田中(仮名)は、全社の法令対応に立ちはだかる“見えないリスク”と日々向き合ってきた。これは、現場任せの限界に気づいた一人の担当者が組織を動かし、仕組みを構築するまでの軌跡である。
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■プロローグ:部長室の重い扉
午後2時、コンプライアンス部。
「田中君、ちょっと」
呼び止めたのは、直属の上司であるコンプライアンス部長の黒岩だった。普段は温和な黒岩の声が、今日は半音低い。田中は嫌な予感を抱えたまま、会議室のドアをくぐった。
「座ってください」
重い扉が閉まる。黒岩は一枚の紙を田中の前に滑らせた。内部通報の受付票。
「本社直通の匿名通報窓口に、三日前、ベトナム拠点に関する情報が寄せられた。発信者は不明だ」
ベトナム拠点。売上の期ズレ操作、架空取引の疑い。
田中は目を疑った。
「規模は、億単位に達する可能性がある。事実確認はこれからだ。だが……」
黒岩の声が、わずかに震えた。
「次回のコンプライアンス委員会で、我々は来期の対応方針を説明しなければならない。経営陣からは間違いなく問われる。『なぜ、兆候を掴めなかったのか』、と...」
田中は、喉の奥が干上がるのを感じた。
その問いに、いま自分は答えを持っていなかった。
■現実:測っていたのは「気分」だった
自席に戻った田中の頭に浮かんだのは、毎年実施してきた従業員満足度調査だった。
人事部主導のエンゲージメントサーベイに、法務の要望でコンプライアンス設問を五問だけ紛れ込ませる。それが、田中が三年間続けてきた「施策」だった。
ベトナム拠点のスコアは、悪くなかった。いや、むしろ平均を上回っていた。
(なのに、なぜだ……)
田中はデータを睨んだ。満足度もエンゲージメントも、静かに優等生の顔をして並んでいた。
そして気づいた。
「これは、"気分"を測っていただけか...」
満足している社員は不正をしないのか? むしろ、「居心地のいい職場」こそ、互いのチェックが働かず、不正の温床となりうる。
満足度調査では、不正リスクは測れない。
田中の手が、震え始めた。測るべきものを、三年間、一度も測っていなかった。
■転機:深夜のウェビナー
その夜、田中はオフィスに一人残っていた。窓の外、東京の灯りが眼下に揺れている。
メールの受信箱をスクロールする指が、ふと止まった。
件名:「グローバルコンプライアンスサーベイ解説ウェビナー/LexisNexis」
法改正対応で世話になった会社だ。再生ボタンを押す。
画面の講師が、落ち着いた声で切り出した。
「コンプライアンスサーベイは、単なるアンケートではありません。『不正の発生可能性』と『組織としての不正検知力』を、定量化するツールです」
続いて映し出された一枚のスライドに、田中は釘付けになった。
4象限のリスクマップ――「低リスク」「暴走型」「確信犯型」「要地固め型」。
「最も危険なのは、確信犯型です。知識はある。数字は整っている。表面は優秀に見える。だからこそ、見えないのです」
田中の脳裏に、ベトナム拠点の「優等生スコア」が蘇った。
(まさか......)
再生ボタンの上で、田中の指が止まっていた。
■決断:部長室、再び
翌朝、田中はまっすぐに黒岩のもとへ向かった。
「部長。コンプライアンスサーベイを、やらせてください」
机に広げたのは、LexisNexisの資料だった。黒岩が資料に目を落とす。
「満足度調査では、不正リスクは測れません。我々が測るべきは、不正の『動機』『機会』『正当化』の3要素―不正のトライアングルです。そして、これは第三者の目で、多言語で、全拠点を一斉に測れる唯一の方法です」
黒岩は、しばらく黙って資料をめくっていた。やがて、静かに顔を上げた。
「……いいだろう。コンプライアンス委員会で報告する材料が、現時点では何もない。君の言う通りだ。やろう」
その日の午後、田中はLexisNexisに連絡を入れた。
LexisNexisのコンサルタントが、翌週には本社を訪れた。磨き上げられた革靴。
その縁に、かすかに現場の砂埃が残っていた。
「田中さん、サーベイは一度実施して終わりではありません。初回で現状を測り、翌年度に施策を打ち、その次の年に再度測る。この『測って、打って、また測る』を繰り返して、初めて『本当に変わったのか』が数字で見えます」
田中は深く頷いた。これまで自分が回してきたのは、測ることだけの「年中行事」だった。
■数ヶ月の沈黙、そして衝撃
設問調整、配信、回収、集計、分析、すべての工程を経て、数ヶ月後、分析レポートを携え、コンサルタントが本社を訪れた。会議室で向かい合いながら田中はレポートを開き、あるページをめくる手を止めた。
「…やはりそうなのか…」
ベトナム拠点。満足度調査で高スコアだった、あの部門。
マッピングされた座標は―
「確信犯型」
法令知識はある。マニュアルも読んでいる。だが、「社内ルールより自分の判断を優先する傾向」が、グループ全体で最も強い水準にあった。
LexisNexisのコンサルタントがレポートの該当ページを指した。
「田中さん。このグループの『不正の動機』スコアは、グループ全体で最下位です。低いということは、『不正を抑制する力が弱い』ということ。目標達成圧力、評価制度の歪み、あるいは業績偏重の文化。何かが、現場を追い詰めています」
さらに、もう一つの指標。
「心理的安全性」が、グループ平均を大きく下回っていた。
「ミスや違和感を察知しても、上司に言えない。『エスカレーションが機能していない状態』です。不正の芽があっても、組織は気づけない」
田中の視界が、一瞬、暗転した。
(動機はある。検知力はない。そして、知識は、ある)
「確信犯型」の意味が、肉体の感覚として腹に落ちた。
内部通報が上がってきたのは、偶然ではなかった。それは、起きるべくして起きた兆候だった。
静かに続けた。
「田中さん、今回の内部通報は、おそらく氷山の一角です。心理的安全性がこれだけ低い組織では、本来であれば通報されるべきだった違和感の多くが、現場で握り潰されている。今回たまたま一件、覚悟を決めた誰かが声を上げた――そう見るべきです」
田中は息を呑んだ。
(では、他にも……あるのか)
「通報を待っていては、遅い。サーベイは、声にならないリスクを、数字で浮かび上がらせるためにあります」
■対峙:コンプライアンス委員会
翌週、来期のコンプライアンス対応方針を検討する、コンプライアンス委員会。
毎年この時期、来期の予算と施策方針を議論する定例の会だ。例年であれば、前年施策の延長線上で、粛々と方針が決まる。
だが、今年は空気が違った。
円卓には、社長、CFO、コンプライアンス担当役員、コンプライアンス部長の黒岩、そしてベトナム拠点も管掌する常務。
田中は、スクリーンの前に立っていた。隣には、LexisNexisのコンサルタントが立っている。
「ご報告いたします。ベトナム拠点の事案は、偶発的なものではありません」
ざわめき。
「我々はこれまで、従業員満足度調査でコンプライアンスを測ってきました。結論から申し上げます。それでは、測れなかったのです」
社長が腕を組んだ。表情は動かない。
田中はクリックした。4象限マップがスクリーンに広がる。ベトナム拠点の赤い点が、「確信犯型」の奥深くに突き刺さっていた。
「この部門は、業績評価上は優等生でした。しかし、
不正の動機がグループ最下位、心理的安全性も低位。
兆候は、数字の中にありました」
「......それは、君の主観ではないのかね」
発言したのは、常務だった。声に苛立ちが滲んでいた。
その瞬間、コンサルタントが一歩前に出た。
「恐れながら、第三者の立場からご説明いたします」
委員会の空気が、ほんの少し変わった。
他社比較データ、製造業他社グループの平均値と、LN製造のスコアを並べた。
「この水準は、弊社がグローバル展開する製造業で実施した過去サーベイのベンチマークと比較しても、明確に下方に外れています。
主観ではなく、複数社のデータに基づく客観事実です」
CFOが、資料に視線を落としたまま、ぽつりと言った。
「……数字で語られると、反論は難しいな」
静まり返った委員会の中で、社長が口を開いた。
「続けてくれ」
■提案:構造を変える
改善施策案が映し出された。
- 評価制度の見直し: 過度な業績プレッシャーの排除
- 業務の属人化解消: 不正の機会を構造的に減らす
- 管理職層への倫理研修: 確信犯型への直接的アプローチ
- 心理的安全性向上施策: 通報経路と一次受けマネジメントの再設計
- カントリーリスクを踏まえた重点教育: ベトナム贈収賄、東南アジアのプライバシー規制
「単なる対症療法ではありません。『組織の構造』を変える提案です」
議論が動き始めた。
「現場のKPI、厳しすぎたんじゃないか」 「評価者訓練を入れるべきだ」 「内部通報制度の運用を、もう一度見直す必要がある」
感情論ではなく、データを起点にした建設的議論が、初めてコンプライアンス委員会で交わされていた。
社長が、ゆっくりと頷いた。
「来期は、これで行こう。構造から変える」
■エピローグ:翌年、そして、その次へ
翌年度。
田中は承認された施策を一つずつ、現場に落とし込んでいった。評価制度の改訂、管理職研修、通報経路の再設計、ベトナム拠点への重点介入。遠藤が現地に何度も飛び、黒岩は社内規程の全面改訂を主導した。
一年がかりの、地道な変革だった。
そして、初回サーベイから二年後、二回目のコンプライアンスサーベイが行われた。
ベトナム拠点の4象限マップ。
赤い点は、「確信犯型」のゾーンから、ゆっくりと、だが確実に、「低リスク」の方向へ動いていた。
「完全ではありません。心理的安全性は、まだ改善余地があります。ですが、打った施策の効果が、数字で確認できた」
田中は、深く息を吐いた。
見えなかったリスクは、見えた。 そして、施策の効果もまた、数字で見えた。
次は、残った課題にどう向き合うか。
「測って、打って、また測る。これが、私たちのコンプライアンスです」
田中は、レポートを閉じた。
窓の外には、ベトナムの空につながる東京の青空があった。
コンプライアンス担当・田中の戦いは、まだ続く。