Use this button to switch between dark and light mode.

見えない動機を暴く| コンプライアンス担当 田中の軌跡 #6

By: 法務部コンプライアンス担当 田中

見えない『動機』――測れなかったリスク、暴かれる瞬間
LN製造株式会社のコンプライアンス強化とグローバルコンプライアンスサーベイ導入事例

「知らなかった」が許されない時代。法改正の頻度と複雑さが増す中、LN製造株式会社のコンプライアンス担当・田中(仮名)は、全社の法令対応に立ちはだかる“見えないリスク”と日々向き合ってきた。これは、現場任せの限界に気づいた一人の担当者が組織を動かし、仕組みを構築するまでの軌跡である。
<<第一回はこちら         <<第二回はこちら  <<第三回はこちら       <<第四回はこちら       <<第五回はこちら

■プロローグ:部長室の重い扉

午後2時、コンプライアンス部。

「田中君、ちょっと」

呼び止めたのは、直属の上司であるコンプライアンス部長の黒岩だった。普段は温和な黒岩の声が、今日は半音低い。田中は嫌な予感を抱えたまま、会議室のドアをくぐった。

「座ってください」

重い扉が閉まる。黒岩は一枚の紙を田中の前に滑らせた。内部通報の受付票。

本社直通の匿名通報窓口に、三日前、ベトナム拠点に関する情報が寄せられた。発信者は不明だ」

ベトナム拠点。売上の期ズレ操作、架空取引の疑い。

田中は目を疑った。

「規模は、億単位に達する可能性がある。事実確認はこれからだ。だが……

黒岩の声が、わずかに震えた。

「次回のコンプライアンス委員会で、我々は来期の対応方針を説明しなければならない。経営陣からは間違いなく問われる。『なぜ、兆候を掴めなかったのか』、と...」

田中は、喉の奥が干上がるのを感じた。

その問いに、いま自分は答えを持っていなかった。

■現実:測っていたのは「気分」だった

自席に戻った田中の頭に浮かんだのは、毎年実施してきた従業員満足度調査だった。

人事部主導のエンゲージメントサーベイに、法務の要望でコンプライアンス設問を五問だけ紛れ込ませる。それが、田中が三年間続けてきた「施策」だった。

ベトナム拠点のスコアは、悪くなかった。いや、むしろ平均を上回っていた。

(なのに、なぜだ……

田中はデータを睨んだ。満足度もエンゲージメントも、静かに優等生の顔をして並んでいた。

そして気づいた。

「これは、"気分"を測っていただけか...」

満足している社員は不正をしないのか? むしろ、「居心地のいい職場」こそ、互いのチェックが働かず、不正の温床となりうる。

満足度調査では、不正リスクは測れない。

田中の手が、震え始めた。測るべきものを、三年間、一度も測っていなかった。

■転機:深夜のウェビナー

その夜、田中はオフィスに一人残っていた。窓の外、東京の灯りが眼下に揺れている。

メールの受信箱をスクロールする指が、ふと止まった。

件名:「グローバルコンプライアンスサーベイ解説ウェビナー/LexisNexis」

法改正対応で世話になった会社だ。再生ボタンを押す。

画面の講師が、落ち着いた声で切り出した。

「コンプライアンスサーベイは、単なるアンケートではありません。『不正の発生可能性』と『組織としての不正検知力』を、定量化するツールです」

続いて映し出された一枚のスライドに、田中は釘付けになった。

4象限のリスクマップ――「低リスク」「暴走型」「確信犯型」「要地固め型」。

「最も危険なのは、確信犯型です。知識はある。数字は整っている。表面は優秀に見える。だからこそ、見えないのです

田中の脳裏に、ベトナム拠点の「優等生スコア」が蘇った。

(まさか......

再生ボタンの上で、田中の指が止まっていた。

■決断:部長室、再び

翌朝、田中はまっすぐに黒岩のもとへ向かった。

「部長。コンプライアンスサーベイを、やらせてください

机に広げたのは、LexisNexisの資料だった。黒岩が資料に目を落とす。

「満足度調査では、不正リスクは測れません。我々が測るべきは、不正の『動機』『機会』『正当化』の3要素不正のトライアングルです。そして、これは第三者の目で、多言語で、全拠点を一斉に測れる唯一の方法です」

黒岩は、しばらく黙って資料をめくっていた。やがて、静かに顔を上げた。

……いいだろう。コンプライアンス委員会で報告する材料が、現時点では何もない。君の言う通りだ。やろう

その日の午後、田中はLexisNexisに連絡を入れた。

LexisNexisのコンサルタントが、翌週には本社を訪れた。磨き上げられた革靴。

その縁に、かすかに現場の砂埃が残っていた。

「田中さん、サーベイは一度実施して終わりではありません。初回で現状を測り、翌年度に施策を打ち、その次の年に再度測る。この『測って、打って、また測る』を繰り返して、初めて『本当に変わったのか』が数字で見えます」

田中は深く頷いた。これまで自分が回してきたのは、測ることだけの「年中行事」だった。

■数ヶ月の沈黙、そして衝撃

設問調整、配信、回収、集計、分析、すべての工程を経て、数ヶ月後、分析レポートを携え、コンサルタントが本社を訪れた。会議室で向かい合いながら田中はレポートを開き、あるページをめくる手を止めた。

…やはりそうなのか

ベトナム拠点。満足度調査で高スコアだった、あの部門。

マッピングされた座標は

「確信犯型」

法令知識はある。マニュアルも読んでいる。だが、「社内ルールより自分の判断を優先する傾向」が、グループ全体で最も強い水準にあった。

LexisNexisのコンサルタントがレポートの該当ページを指した。

「田中さん。このグループの『不正の動機』スコアは、グループ全体で最下位です。低いということは、『不正を抑制する力が弱い』ということ。目標達成圧力、評価制度の歪み、あるいは業績偏重の文化。何かが、現場を追い詰めています」

さらに、もう一つの指標。

「心理的安全性」が、グループ平均を大きく下回っていた。

「ミスや違和感を察知しても、上司に言えない。『エスカレーションが機能していない状態』です。不正の芽があっても、組織は気づけない」

田中の視界が、一瞬、暗転した。

(動機はある。検知力はない。そして、知識は、ある)

「確信犯型」の意味が、肉体の感覚として腹に落ちた。

内部通報が上がってきたのは、偶然ではなかった。それは、起きるべくして起きた兆候だった。

静かに続けた。

「田中さん、今回の内部通報は、おそらく氷山の一角です。心理的安全性がこれだけ低い組織では、本来であれば通報されるべきだった違和感の多くが、現場で握り潰されている。今回たまたま一件、覚悟を決めた誰かが声を上げた――そう見るべきです」

田中は息を呑んだ。

(では、他にも……あるのか)

通報を待っていては、遅い。サーベイは、声にならないリスクを、数字で浮かび上がらせるためにあります」

■対峙:コンプライアンス委員会

翌週、来期のコンプライアンス対応方針を検討する、コンプライアンス委員会

毎年この時期、来期の予算と施策方針を議論する定例の会だ。例年であれば、前年施策の延長線上で、粛々と方針が決まる。

だが、今年は空気が違った。

円卓には、社長、CFO、コンプライアンス担当役員、コンプライアンス部長の黒岩、そしてベトナム拠点も管掌する常務。

田中は、スクリーンの前に立っていた。隣には、LexisNexisのコンサルタントが立っている。

「ご報告いたします。ベトナム拠点の事案は、偶発的なものではありません」

ざわめき。

「我々はこれまで、従業員満足度調査でコンプライアンスを測ってきました。結論から申し上げます。それでは、測れなかったのです

社長が腕を組んだ。表情は動かない。

田中はクリックした。4象限マップがスクリーンに広がる。ベトナム拠点の赤い点が、「確信犯型」の奥深くに突き刺さっていた。

「この部門は、業績評価上は優等生でした。しかし、

不正の動機がグループ最下位、心理的安全性も低位。

兆候は、数字の中にありました」

「......それは、君の主観ではないのかね」

発言したのは、常務だった。声に苛立ちが滲んでいた。

その瞬間、コンサルタントが一歩前に出た。

「恐れながら、第三者の立場からご説明いたします」

委員会の空気が、ほんの少し変わった。

他社比較データ、製造業他社グループの平均値と、LN製造のスコアを並べた。

「この水準は、弊社がグローバル展開する製造業で実施した過去サーベイのベンチマークと比較しても、明確に下方に外れています。

主観ではなく、複数社のデータに基づく客観事実です」

CFOが、資料に視線を落としたまま、ぽつりと言った。

……数字で語られると、反論は難しいな」

静まり返った委員会の中で、社長が口を開いた。

「続けてくれ」

■提案:構造を変える

改善施策案が映し出された。

  • 評価制度の見直し: 過度な業績プレッシャーの排除
  • 業務の属人化解消: 不正の機会を構造的に減らす
  • 管理職層への倫理研修: 確信犯型への直接的アプローチ
  • 心理的安全性向上施策: 通報経路と一次受けマネジメントの再設計
  • カントリーリスクを踏まえた重点教育: ベトナム贈収賄、東南アジアのプライバシー規制

「単なる対症療法ではありません。『組織の構造』を変える提案です

議論が動き始めた。

「現場のKPI、厳しすぎたんじゃないか」 「評価者訓練を入れるべきだ」 「内部通報制度の運用を、もう一度見直す必要がある」

感情論ではなく、データを起点にした建設的議論が、初めてコンプライアンス委員会で交わされていた。

社長が、ゆっくりと頷いた。

「来期は、これで行こう。構造から変える」

■エピローグ:翌年、そして、その次へ

翌年度。

田中は承認された施策を一つずつ、現場に落とし込んでいった。評価制度の改訂、管理職研修、通報経路の再設計、ベトナム拠点への重点介入。遠藤が現地に何度も飛び、黒岩は社内規程の全面改訂を主導した。

一年がかりの、地道な変革だった。

そして、初回サーベイから二年後、二回目のコンプライアンスサーベイが行われた。

ベトナム拠点の4象限マップ。

赤い点は、「確信犯型」のゾーンから、ゆっくりと、だが確実に、「低リスク」の方向へ動いていた。

「完全ではありません。心理的安全性は、まだ改善余地があります。ですが、打った施策の効果が、数字で確認できた

田中は、深く息を吐いた。

見えなかったリスクは、見えた。 そして、施策の効果もまた、数字で見えた

次は、残った課題にどう向き合うか。

「測って、打って、また測る。これが、私たちのコンプライアンスです」

田中は、レポートを閉じた。

窓の外には、ベトナムの空につながる東京の青空があった。

コンプライアンス担当・田中の戦いは、まだ続く。

Tags: